海の外
現在執筆中の論文、9割5分以上は書き終わりました。
文章自体はもう出来ているので、あとは体裁を整えるだけです。
体裁を整えるだけなので、今日はもうやらなくてもいいか、という気持ちです。
この論文は、私の研究の大部分を載せるメインの論文ではありません。
当初はメインの論文に組み込む予定であったものを、ほんの一部分だけ取り出して、小さく纏めたものです。
自分で言うのも何ですが、少々しょぼいです。
しょぼいですが、最初の一歩としてはとても大切だと思っています。

論文を書いていて痛感したのは、自分の英語力の無さでした。
今までもたびたびこのブログで取り上げてきましたが、やはり英語はとても大切です。
日本語は世界の中では圧倒的なマイノリティです。
公用語にしているのは日本国内とパラオ共和国アンガウル州くらいなもので。
個人的には日本語は大好きなんですけど、好きなだけじゃやっていけません。
将来的に海外に住むことになる可能性を考えても、英語の勉強は必須であると感じています。
世界中で通じる言葉は、事実上英語ですし。
バベルの塔さえ作らなければこんなことにはならなかったのかもしれませんが。

最近、(ようやく)先のことを考えるようになってきました。
博士課程修了後、国内で仕事を探す気でいたのですが、昨日ふいに「海外もアリだな」という気分になりました。
か細いながらもつてもあったりするので、あとは自分がどのように行動するか、です。
まだ少しだけなら時間があるので、じっくりと考えようと思っています。
とりあえず、6月にスタンフォードの教授とは会いそうな気配。

実際問題として、海外に住むことになったら一番困るのは多分言葉です。
ひとり暮らし経験が無いままいきなり海外でひとり暮らしデビューというのにも、若干の不安を覚えます。
あと、ジャンプとサンデーを読む手段を考えないといけないことも、個人的には大きな問題です。
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偏光グラス
情報を判断するときには出来うる限り思いこみや偏見を廃したいと、常々思っています。
「誰々が言ってたから」とか、「何々に書いてあったから」という理由ではなく、その情報そのものを対象として判断したいです。
「判断」というものの性質上、どうしても「私」というバイアスは掛かってしまいますが、それ以上の色眼鏡を通しては判断したくありません。
でも、これって実はとても難しいです。
他人と会話することを考えた場合、「会話」というのは互いのバイアスのやり取りのことですし、他人の書いた文章には、書いた人のバイアスが掛かっています。
「判断」の基準を自分にのみに求めたいのならば、自分の五感で得た情報のみによる判断になってしまいます。
それではどうしても情報の量が限られてしまうため、実際には他人のバイアスを含んだ情報も必要とせざるを得ません。
他人のバイアスを含んだ情報から、如何に「まっさら」な情報を復元できるか、が重要なのだと思います。
特に、これだけたくさんの「偏見に満ちた」情報が容易に手に入るような環境では。

情報の「インプット」という観点では、他人のバイアスをなるべく取り去って判断することが自分にとってはとても大切ですが、「アウトプット」という観点では少し違ってきます。
情報をアウトプットする際には、「自分バイアス」をガチガチにかけることで、情報に付加価値を付けようとする場合が多いです。
「批評」とか「オリジナリティ」とか「自分らしさ」とか「感想」とか、全部そうです。

と言うわけで、常々このブログには色眼鏡どころか強力な偏光グラスなみのバイアスをかけて文章を書いています。
私の持っている考えや偏見が山盛りです。
読む際には、できるだけこの偏光グラスを取り去って判断してください。
でも取り去った後には、何かを判断できるだけの情報は残って無さそうです。
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ぐだぐだな一日
隣県に住む友人が、ゴールデンウィークということもあり、遊びに来ました。
大学一年の頃からの付き合いなので、もう随分と経ちます。
とても良い感じで二人ともぐだぐだでした。

午後4時頃に彼とは合流したのですが、私は起きてから何も食べていない状態だったので、まったりと話をする場所として「何か食べられるところ」をリクエストしました。
何やら「オーガニック〜〜」と書いてあるような喫茶店に入りました。
何となく身体に良さそうな雰囲気です。

流石にオーガニックだけあって、売っていたハムやらジャガイモやらが挟んであるパンは、それなりの価格でした。(数百円ですが)
私はイマイチ味の分からない人間なので、コンビニに売っているパンとの差はよく分かりませんでしたけど、きっと身体にいいはずです。
なんと言ってもオーガニックですし。

このような喫茶店にわざわざ来る人は、私のような食べ物があれば何でも良かった人を除けば、それなりに健康志向の人のような気がします。
喫煙席ではプカプカと煙草を吸っていましたが、健康志向の人のはずです。
この喫茶店自体がオーガニックを売りにした健康志向の喫茶店なんだと思います。
喫煙席はありますけど。
あと、オーガニックが身体に良いとも限りませんけど。

そんな店でぐだぐだと過ごした後は、大学の屋上で酒を飲みながらぐだぐだと過ごしました。
彼にとっては久しぶりの屋上だったはずです。
私にとっては昨日ぶりです。
気心の知れた友人とぐだぐだな時間を過ごしたことは、凄くいい気分転換になりました。
気分転換が楽しすぎて、そればかりをやっていたい気持ちになるほどです。
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人を見る目
人を判断することはとても難しいことの一つですが、これは自分で判断しないとならないことの一つでもあると思います。
最も他人の意見に影響されやすいにも関わらず、最も他人の意見を排除して判断しないとならないことです。

今日(日付的には昨日)、研究室で仕事をするフリをしながらまったりとネットをしていたら、こんな話が聞こえてきました。
誰々がムカつくとか、そんな話です。
私はそういう話は好きではないので関わらないようにしてますけど、何人かが巻き込まれてました。
何となく聞いてしまった話から判断するに、私にはその「ムカつかれている」人物にはあんまり非がないように感じました。
その人は他の研究室の人ですけど、私も面識がありますし、話をしたこともあります。
そして私はその人のことを別に嫌いでもありません。

会話の流れでは、その人のことをムカついたきっかけから、「誰々がこういうことされたらしいよ」とか「誰々もあいつのことを嫌ってるらしいよ」とか、そういう話になってきていました。
「伝聞」をさらに「伝聞」している感じです。
その話に相づちを打っていたのは、話の対象となっている人のことをよく知らない人でした。
よく知らない人の話で、最初にネガティブな印象を受けさせられて、これから彼はその人のことをきちんと「自分の判断で」見られるかが少し心配です。
まあ、その場で何も言わなかった私も多分同罪ですけど。

私にももちろん、「大嫌い」な人から「大好き」な人まで居ます。
そして私はあんまり他人を話題にすることが好きではない(得意でもない)ので、本人がその場に居ないときには会話の種にはできるだけしないんですが、それでも会話するときには「好き」の方にカテゴライズされている人を対象に話をしたいです。
ポジティブであろうとネガティブであろうと他人に対して「印象」や「先入観」を与えてしまうことには変わりはありませんが、それならば「ポジティブ」な印象の方が良いだろうと思います。
ネガティブな印象を持つことは構わないと思うのですが、それを他人に言う必要はないだろうと。
「先入観」を与えてしまうこと自体が正しいか否かについてはまた別問題ですけど。

私の居ないところでは、もしかすると私に対する「批判」もなされているのかもしれません。
別に誰が何を言っていても全く構わないんですが、「私」という人物を判断するのはその人自身の目でやって欲しいなあ、とは思います。
その結果が「ムカつく」とか「嫌い」なら、それは仕方ないです。
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孤独のグルメ
「孤独のグルメ」という本(マンガ)を読みました。
凄く面白かったです。
でも、同時にこの本は何故こんなにも面白いんだろう?と不思議に思う本でもありました。


"孤独のグルメ" (久住 昌之, 谷口 ジロー)

個人で雑貨の輸入商を営んでいる主人公、井之頭五郎が、仕事の合間にメシを食う。
ただそれだけの話です。
それもよくある料理マンガのように、料理に対する詳しい解説もありません。
「豚肉炒めととん汁で豚がかぶってしまったな」とか「ここはなめこ汁で決めよう」とか、食べ物に対する含蓄よりも、主人公の述懐がメインになっています。
「会話」もありますが、それよりも「モノローグ」で全てが語られています。
30代後半から40代前半とおぼしき主人公が、ひたすらに食べているだけのマンガ。
しかも食べているのは、街の定食屋などの、いわゆる「B級グルメ」ばかり。
でもこの上なく面白い。
この本を面白いと思えるか否かの境界は、「共感」できるか否かにあると感じました。
そして、彼の「美学」はこの言葉に集約されています。
「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……」

独りで食事をすること。
人によっては至福の時間にもなりますし、人によっては苦痛でしかないのかもしれません。
そして、前者の人間にとっては、この本は凄く共感できるんです。

私は基本的に単独行動が多いので、自然と「独りで食事をすること」も多いです。
地元の場合はラーメン屋くらいしか行きませんが、出張などで色んな街に行ったときには、「独りで食事をすること」は楽しみの一つでもあります。
知らない街で、知らない店に入って、知らないものを食べてみる。
これは凄く面白いです。
知らない店に入るのは、若干の心理的なハードルがあります。
「この店は大丈夫だろうか?」「入りやすい店はどれだろうか?」
色々な葛藤があります。
そして、「エイや」と入って、周りを観察しながら注文して、ドキドキしながら食事を味わう楽しさを、この本を読むと思い出すんですよね。
「神戸で行った明石焼きのお店は中々いい雰囲気だったなあ」とか「札幌のラーメン屋にはあと何軒か行きたかったなあ」とか「広島のお好み焼き屋さんはイマイチだったなあ」とか「沖縄では独りで入ったら断られたなあ」とか。
この本は「孤独のグルメ」を楽しめる人、全てにオススメです。

今年はとりあえず、出張で9月に横浜に行きます。
実は未だ食べたことのない「横浜中華街」がとても楽しみになりました。
あと、やはり9月にドイツにも行きます。
異国の地で「孤独のグルメ」はとてもハードルが高そうですけど、1回くらいはチャレンジしたい気持ちになりました。
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