過去にも何度か移転を考えて、その度に挫折をしていました。
どことなくなんとなく:記事内広告
どことなくなんとなく:移転を試みるも
どことなくなんとなく:記事内に広告が挿入されるようになりました
移転を挫折していた大きな理由はJugemブログはJugem形式以外のエクスポートに対応していないこと、画像の移転が大変そうなこと、記事数が多いので移転した後の体裁の調整が大変そうなこと、等などがあり、些か逡巡していました。
面倒くさいなあ、このまま放置してブログサービスが終わったら消滅でも良いかなあ、と。
もちろんそれなり以上に思い入れはあるので、何とかしたい気持ちも強いのですが。
そんなこんなを経て、一応、ある程度移転先が形になりつつありますので、ブログの引越をしようと考えています。
移転先ははてなブログにしました。
はてなのアカウントはずーっと使ってましたし、それなりにブログのことを考えてくれていそうですし。
現在、記事と画像は全て移行済みですが、移行によって記事の体裁が崩れてしまっているところがあります。
2009年以降の記事は全部直しました。
それより前の記事はおいおい。おいおい。
数が多い多いorz。
と言うことで、今後ははてなブログの方で更新していくつもりです。
こちらはしばらくはこのまま保存します。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
いつの頃からか、この「屋上」は立入禁止になりました。
危険だとか不審だとか、そんなつまらない理由です。
つまらない人間が、つまらない理由で、私にとっての大切な場所に鍵をかけてしまいました。
私には鍵を開ける手段がありませんでした。
このブログで「屋上」で検索をかけて出て来る一番新しいエントリが2009年でした。
随分と時間が経ってしまったなあ、このまま「屋上」を永遠に失ってしまうのかなあ、と半ば諦めていました。
この場所、なくなるんですよね。
今日はたぶん、ほぼラストチャンスだったのだろうと思います。
少なくても今週と来週の、僅かな間隙にのみチャンスが存在していたのだろうと思います。
私の中の「屋上」を、私の中に「屋上」としてきちんと留め置くための、最後のチャンス。
エピタフを刻むための、最後の機会。
屋上への扉は開いていました。
私のことを迎え入れてくれるように。
私は屋上から見るこの木が好きで、何度も何度も写真を撮ってました。
その写真だけをまとめたエントリもあります。
どことなくなんとなく:定点観測
相変わらず定点的で、すっと私の中の「屋上」と現在の屋上を繋いでくれました。
この場所は、間違いなく私にとっての「屋上」です。
お陰でこの場所に対して、懐かしさではなく極々自然に私が当たり前にいられる場所であると言う感覚を持つことが出来ました。
「定点」なので。
もう一度「屋上」に来ることで、なんとなく私にとっての「屋上」をきちんと「屋上」として私の一部にできたように感じています。
最後にどうしたら良いか分からなくてどことなく所在なげにしていた「屋上」が、きちんと私の中に居場所を見つけたような感じです。
私の「屋上」が迷子にならなくて本当に良かったなあ、と言う感覚です。
「屋上」に来たらもちろんやることは一つ。
缶コーヒーです。
いつものように屋上からの景色を眺めながら缶コーヒーを飲みました。
屋上で缶コーヒー。
かつてのいつも通り。
私の中の「屋上」にとって、永遠の存在理由。
雪の日に口から吐かれた言葉は、音を立てずに雪となり、景色と言葉を白くしてくれます。
言いたいこと、言えないこと、言いたくないこと、言うべきでないこと、良い言葉、悪い言葉、全部白に染め上げて、雪になって綺麗なものに変わってくれるのなら、雪景色となって消えてくれるのなら、どんなに素晴らしいものだろうかと感じます。
一方で、雪の日に胸いっぱい吸った空気は、心の中のチリや言葉を捕まえて、雪として降らせてくれるのではないかと期待します。
それで少しでも自分の心が綺麗になるのではないかと切望します。
雪の日に音無き雪を吐き出し、形無き雪を吸い込むことは、自分の汚さを雪いてくれるような気にさせてくれます。
雪片のひとひらひとひらが、綺麗にされた言葉の残滓であると考えると、雪の日の空気が少し静寂で、少し綺麗なことは、自分を形作る世界の静謐さの顕れであると錯覚しそうになります。
本当にそうだとしたら、凄く良いなあと思うのですが。
次に雪が降ったときは、少し外を歩こうと思います。
雪を吐き出して、雪を吸い込むために。
あまりやりすぎると汚い私全体を核に雪だるまが出来てしまうので、その点だけ注意しないと。]]>
数年前(5年位?)からアテロームらしきものが右肩のところにできていて、少しずつすくすくと育っていました。
ああ、順調に育っているなあ、どうしたもんかなあ、とずっと思案と言う名の放置を続けていたのですが、最近はちょっと看過できないくらいに大きくなってしまったのと、先日韓国に行った時にかなり痛んだこともあり、ようやく重い腰をあげて病院に行きました。
病院嫌い。
ちなみに、アテロームとは?と言うことで、Wikipediaより引用します。
粉瘤腫(ふんりゅうしゅ、 atheroma (アテローマ))とは、新陳代謝によって表皮から剥がれ落ちる垢などの老廃物が、皮膚内部(真皮)に溜まることによってできる良性の嚢胞性病変の総称(-omaという接尾語をもつが新生物とは考えられていない)。表皮嚢胞(epidermal cyst)あるいは類表皮嚢胞(epidermoid cyst)とも呼ばれる。あれ?アテローマなのかな?
これで、手術をして取ることにしたのですが、それに先立って2週間ほど抗生剤を飲み続けました。
今思い返すとこの頃からなんとなくぼんやりとした気怠さを感じる日々が始まったように感じます。
無事に手術は終わり、直径3センチほどのアテロームが取れました。
傷口は長さ5〜6センチ位で、8針ほどもっこりとした感じに縫合されてます。
先日抜糸をしました。
まだたまに痛いです。
ちなみに、手術をしてくれたのがまだ若い医師で、先輩の医師の指導と助言で切ってました。
「こうですか?」
「いや、それはこっちから切ったほうがいいよ」
「ああ、そこちょっと切りにくそうだね」
「もっと切って」
「チョキチョキチョキチョキ」
「(結構ザクザク切ってるなー)」
なんだか微笑ましい感じで楽しかったです。
切られているのは私の身体ですが。
段々ともっと切って欲しい気持ちになってきたから不思議です。
なんとなく、毎日だるだると調子の悪い日が続いています。
頭が痛い日もあれば、お腹の痛い日もあり、怠くて仕方ない日もあれば、眠れない日もあり、どこも変でないのに全体的にしっくり来ない日もあるような毎日です。
なんとなく、うすぼんやりとした、体調不良。
どう対処したもんかなー、と結構困っているのですが、なんとなく怠さに身を任せてしまっている状態です。
食べることと、寝ることは意識しているのですが。
各所に迷惑をかけ始めているので、はやくどうにかしたいと思ってます。
はやく万全の状態になって、八面六臂の大活躍をしたいですね。
だるだるの状態と見分けがつかなかったらどうしよう。
ペンギン・ハイウェイ (角川文庫) 森見 登美彦 KADOKAWA / 角川書店 2012-12-25 by G-Tools |
『ペンギン・ハイウェイ』は、わかりやすくいえば、郊外住宅地を舞台にして未知との遭遇を描こうとした小説です。スタニスワフ・レム『ソラリス』がたいへん好きなので、あの小説が美しく構築していたように、人間が理解できる領域と、人間に理解できない領域の境界線を描いてみようと思いました。郊外に生きる少年が全力を尽くして世界の果てに到達しようとする物語です。自分が幼かった頃に考えていた根源的な疑問や、欲望や夢を一つ残らず詰め込みました。(森見登美彦)森見登美彦さんがはてなを訪問!新作『ペンギン・ハイウェイ』の紹介も より引用。
この話は、冒険譚であり成長譚でありSFでありほのかな恋愛話でもあるので、どの切り口からも感想が書けてしまう感じなのですが、独特だと感じたのは「研究の指南書」としての側面も持っていることです。
主人公である小学4年生のアオヤマ君は、とても研究熱心・勉強熱心で、彼が日々疑問に思ったことをノートに書き留め、調査し、仮説を立て、そして実行していく様はまさに研究者のそれであり、彼は将来とても良い研究者になるだろうなあ、と期待せずにはいられませんでした。
特に冒頭からの引用で、
他人に負けるのは恥ずかしいことではないが、昨日の自分に負けるのは恥ずかしいことだ。一日一日、ぼくは世界について学んで、昨日の自分よりもえらくなる。たとえばぼくが大人になるまでは、まだ長い時間がかかる。今日計算してみたら、ぼくが二十歳になるまで、三千と八百八十八日かかることがわかった。そうするとぼくは三千と八百八十八日分えらくなるわけだ。と言うのは、本当に本当に大切なことで、でも忘れがちなことで、自分自身の中に刻みつけておく必要性があると感じました。
彼が進めていた幾つもの研究は、物語の中で一つの大きな研究に収束するのですが、この本の中では解決には至りません。
この研究は彼の生涯に渡る研究テーマになるはずのものですので、そう簡単には解決しませんし、しかし彼なら必ず解決させるだろうと確信できる、そんな内容でした。
ヒントは沢山散りばめられていたように感じます。
友人のウチダ君の語る多世界解釈であったり、ブラックホール・ホワイトホールおよび多世界の暗喩としての「海」であったり、事象の地平線におけるホーキング放射を連想させる「ペンギン」の役割だったり。
彼は必ず「昨日の自分よりえらくなって」、彼の研究を完成させて、そして彼の願いを叶える日がくるのであろうなあ、だからこれは希望に満ちたエンディングなんだろうなあ、と読了した時に思いました。
ところで、「学習の高速道路」と言う考え方があります。
将棋の羽生善治氏が語った言葉で、「ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走りぬけた先では大渋滞が起きています。」と言った内容です。
確かにITとネットの進歩によって、ある程度のレベルに至るまでは高速道路を通るように素早く、知識を得ることができて学習することが可能になったと思います。
そこから先、大渋滞を超えるためには最終的には各人の個性、指向、好みが重要になってくると思いますが、アオヤマ君には明確な目的があって、考える頭があって、調べる環境があって、彼しか持ち得ないデータがあるので、彼は高速道路を通り過ぎた後に独自の道無き「けもの道」を進んでいけるはずです。
彼の行く「ペンギン・ハイウェイ」の先が、朗々たる未来であることを願わずにはいられない、とてもとても面白い本でした。
多くの種類がある様、様々なと言う意味を表すために「色」という言葉を使う感性が私にとってはとても素敵に感じられるのですが、もともとは「色々」と言うのは「様々な色」を表す言葉で、「様々」の対象としての「色」だったようです。
花の色、葉っぱの色、織物の色、紙の色、玉の色など、色彩豊かなものの色を表すために「色々な」と言う言葉を用いていて、それが段々と「様々な」と言う意味に変遷していくことは、現象を捉えるメタ思考として「色」を用いた証のように感じられて、やはりとても私の好みであると感じます。
例えば空を見ていると、いっときとして同じではなく、もともとの意味で表したとしても色々です。
青い空、赤い空、紺の空、黒い空、紫の空、黄色い空、灰色の空、緑の空、白い空、色々です。
そして空の色は、空自体の色だけではなくて、見ている私の捉え方の要素も取り入れて、最終的な私にとっての「色」になります。
抜けるような青空なのに色彩を感じられなかったり、どんよりとした鉛色なのに鮮やかさを見出したり。
色々です。
また、言葉としての色にも強弱があるように感じられます。
「白」「黒」「青」「赤」の4種類だけはそれのみで形容詞化することが可能ですが(白い、黒い、青い、赤い)、それ以外の色はそれほどの強さを持っていません。
かろうじて「色」の助けを借りることによって、「黄」と「茶」が形容詞化できます(黄色い、茶色い)けれど、それ以外の色には名詞としての枠を超えられません。
色々な色があるにも関わらず、色々な制限を超えられた色は色々ではないので、色々と面白いなあ、と思っています。
身の周りにある色々な色、色々な景色、色々な現象、色々な自然、色々な人、色々な自分を色々と楽しむことを、色々ある人生の目的の中でも上位に据えられたら、それは色々と価値があるだろうと感じています。
このブログはそのような色々なものを記録しておく場所として、色々と大切にしていきたいと色々な意味で考えています。
色々と。色々に。色々の。色々な。色々。
今回の学会に参加するきっかけになったのは、昨年の12月頃にきた一通のメールでした。
大会長からの依頼で、シンポジウムでの「指定討論者」なるものを仰せつかり、ふむ、会場はどこだろうと思ったら韓国だった、という経緯です。
ちなみに「指定討論者」と言うのはシンポジウムの発表者に対して質問をして討論をしたり、場合によってはシンポジウム全体の総括を行うような、とても大切な役回りです。
当然、今回の学会でも私は大活躍で、シンポジウム直前に司会の先生や演者の先生とは下記のようなやり取りがありました。
「指定討論者には何をやってもらおうか」
「フロアから質問が出なかった時に質問してもらう感じですかね?」
「じゃあそうしようか」
めでたく、フロアからは沢山の質問が出ましたので、私の指定討論者のお仕事は一言も発せずに終わりました。
そこに居ることがお仕事。
今回韓国に来たお仕事。
大活躍でした。
今回、韓国に5泊していて、明日帰国の予定ですが、最初の3日は同行してきた学生がいました。
彼らは予定があって日曜に帰ってしまいましたが、教員である自分の方が暇なのもどうかなー、と思わなくもないのですが、彼らのおかげで前半はとても楽しい旅になりました。
食べ物もきちんとしたものを食べましたし。
ワインバーでのビュッフェと、サムゲタン、ビビンバ。
彼らが帰った後の夕飯が、たこ焼き、ビッグマック、コンビニ弁当であったことを考えると、その差は歴然です。
若干の異国に置き去りにされた感も感じたり感じなかったり。
今回の学会では、ソウルの江南区に来ています。
とても都会で位置づけ的には横浜的なのかなー、となんとなく感じています。
会場の近くにはお寺もあって、ちょっとウロウロしてみました。
日本のお寺と雰囲気が違って、面白かったです。
もう少し生活・文化に密着している印象を受けたのと、もう少し異世界に近い印象を受けました。
あとは、全体的にカラフルでファンシー/ファンキーな感じ。
と言うわけで、韓国はなかなか楽しかったです。
明日帰国の予定。
一つ心配なのは、ソウルに来た日も酷い雨だったのですが、明日も雨の予報のことです。
どうにか晴れると良いなあと思ってますが、これはもう私の雨男としてのレベル次第ですね。
車体が黒なので、傷が目立つとか、すぐに汚れるとかはありますが…。
これは洗車直後に撮った写真です。
先週の土曜日。数時間後に嵐になりました。
現在は純正+α程度の状態です。
一部STIパーツに変えてあって、
BRZに乗るようになって改めて実感したことは、車はやはり「走る」「曲がる」「止まる」の基本性能の高さがとても重要だということでした。
走行中の余裕、マージンがあるため、むしろ安全運転が可能です。
これは、私がスバル車であるBRZを購入した動機とも関係があって、大本のきっかけといえる事故がありました。
笹子トンネル天井板落下事故です。
この事故で、唯一助かった車が、様々な状況や偶然の要素がもちろん大きいのでしょうけど、スバルのインプレッサでした。
私には、車がインプレッサだったことも、生還の大きな要因だったように思えてなりませんでした。
やはり、車の基本性能が高いことに越したことはないなあ、と。
まあ、このインプレッサと私のBRZとだと、BRZの方がかなーり遅いですけど。
ちなみにこのインプレッサは修復されてます。
と言うことで、非常に運転しやすくていい車だと感じています。
また、運転もとても楽しいです。
飲み会の日であっても、ひたすら烏龍茶を飲み続けて車で帰りたくなるくらいには、日々とても楽しいです。
中に入っている生体は下記の通り。
ボトルアクアは、可能な限り手をかけない環境を作るのが理想ですので、エアレーションやろ過は行っていません。
この上、照明も行わないと完璧ではあるのですが、そうするとかなり水草の種類が限られますし、環境を整えるのがとても難しくなります。
と言うことで、照明だけはきっちり行うことにしました。
照明を選ぶにあたって、蛍光灯を用いるかLEDを用いるかは、結構重要な問題です。
今回は蛍光灯を用いています。
と言うのも、LEDは明るいのですが、光の波長の幅が狭く、植物が光合成に使える光量は実際にはとても少ない場合があるからです。
水草対応のLEDも売ってますが、結構高いため、それならば波長のことを考える必要のない蛍光灯を使うことにした次第です。
これを12時間ごとに明暗を繰り返しています。
こんな感じで、とりあえずはとても順調です。
あとはチョコチョコと手を加えてバージョンアップを行いながら、できるだけ長く維持できたらなあと考えています。
毎日、エビや魚を見る生活は、当初の想像よりもずっと心のスキマにピタッとハマってしまった感がありますので。ので。
さて、私は「本」は紙以外はあり得ないと考えている紙原理主義者なのですが、文明の進歩は望むと望まないとに関わらず、確実に私の生活を侵食してきています。
そう「電子書籍」です。
私は上記のように紙の本を好んでいるため、電子書籍に対する感度であったり
積極性だったり受け入れだったりはかなり遅かったと思います。
そんな私にも、逆らえずやむを得ず、日常に電子書籍が。
iPad mini 4のKindleで「人工知能は人間を超えるか」を読んでいるところです。
私は、一応研究者として、脳科学側から知能だったり精神だったり感情だったりその他を考えていますが、人工知能側からのアプローチや、考え方は非常に面白く勉強になっています。
人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの (角川EPUB選書)
松尾 豊
最初に陥落したのは「週刊少年ジャンプ」でした。
どことなくなんとなく;ジャンプ+ on iPhone 6 Plus
ちょっと引用します。
もともと、私は「本」に関してはかなりの保守派で、今でも紙媒体以外は考えられないと思っています。
ただそれは、「本」の持つ機能のうち、「情報の蓄積」をかなり重要視しているからです。
〜数十年以上(場合によっては百年単位)での保存を考えた場合、「紙媒体」以外にはありえません。
従って、単行本類は紙媒体での収集をやめる気はありませんし、私の場合は電子書籍に関してはあくまでも「紙」ありきでの話になると思います。
しかし「雑誌」についてはちょっと話が異なります。
雑誌については、「買って」「読んで」「捨てる」のサイクルでしたので、保存性については考慮の必要がありません。
そうすると、ジャンプが発売日の朝にiPhoneで自動的に読めるようになるというのは、こんなに有難い話はないです。
朝起きると、布団に居ながらにしてジャンプを読める生活。
幸せが具現化した形の一つですね。
何度か書いているボトルアクアリウムですが、現在なかなか順調です。
ちょうど直前のエントリに書いてます。
直前と言っても4ヶ月前ですが。
あっという間ですね。
現在、写真はないので載せられませんが、前回のエントリの時には卵だったメダカたちがスクスクと大きく育ち、今ではすっかりと我が物顔でボトルの中を泳いでいます。
ボトルの中には今のところ、
たった今、ついさっき撮った今この文章をまさにいま書かんとしているときの写真がこれです。
duet displayを使って、MacBookに、iPad mini 4をデュアルディスプレイで接続している感じです。
どちらも持って歩いていて、いざというときにはデュアルディスプレイにもできるので、かなり悪くないです。
普段使いのガジェットとしては、
初出はカメラにおける「レンズ沼」らしいのですが、一度ハマると底なし沼のように抜け出せない趣味だったり物だったり事象だったりを「沼」と称するようです。
私も割合「沼」とは近しい性分ではあるのですが、今年ちょっと危なかったものに「家電沼」と「文具沼」がありました。
いやー、家電があんなに奥が深いものだとは考えていませんでした。
今年買って一番良かったもの大賞は、間違いなく「食器洗い乾燥機」です。
食器がすごく綺麗になりますし、食洗機の中に上手に食器を詰め込めた時の達成感と言ったら!
Panasonic 食器洗い乾燥機 プチ食洗 ホワイト NP-TCM2-W
もし今は食器洗い乾燥機を使ってなくて、食器洗いに辟易としている人は、騙されたと思って是非一度試してみてください。
加えて、文具沼ですね。
今までは文房具は全く興味がなく、使えればいいやくらいの感覚だったのですが、あるとき、某所からモレスキンのノートをもらいました。
メモをとる習慣はなかったのですが、せっかくもらったのでちょっと使ってみるかー、と、メモを取るように意識してみたら、これが意外に快適。
今まで、Evernoteなどでデジタル的にメモを取ろうとしていたときは何度も挫折していたのにも関わらず。
そうするとメモを取るためのボールペンも欲しいなあ、と考えて、ようこそ沼の入り口に、という感じです。
上がLamy 2000と言う4色ボールペンで、下がITOYAのRomeo No.3と言うボールペンです。
現在メインではLamy 2000の方を使っています。
これがなかなか面白いボールペンで、1966年の発売から50年近くデザインが変わっていません。
ノックした時のペンの向きで、4色のうちで出てくる色が変わる仕掛けになっています。
面白いです。
しかも、uniの名作ボールペンであるJET STREAMの替芯が使えます。
素敵なボールペンに、書きやすい替芯を入れられるなんて、考えるまでもなく最高です。
書きたいことを書いていたら趣味とか物とかに特化してしまいましたが、今年はそれ以外にも色々な人のお世話になり、色々な経験をすることができたと感じています。
一つ一つは書ける範囲でそのうち書きたいとは思っているところではありますが、自分のなかでインプットが充実すると、アウトプットがおざなりになってしまうのが、かなり顕著に出たのが今年だったのかなあ、と痛感しています。
文章を書くこと自体は、とても楽しいのですが、なかなか敷居が高くなってしまっているため、まずは今日、このエントリに書いたことを下敷きに、次の話を書ければなあ、と思っています。
と言いつつ、次の話は全くこれっぽっちも関係ないものかもしれませんが。
そんな感じでゆるゆるとやっていきたいと強く希望する次第です。
このボトルはもう保たないと言うのは、うすうす5月頃から気付いていて、そのための準備もしていました。
新しいボトルの作成です。
当初の作戦では、新しいボトル作成が済んだら、古いボトルから生体を移動させようと思っていました。
しかし、新しいボトルの作成に予想以上に手間取ってしまい、結果的には間に合いませんでした。
正確には、新しいボトルに移したことが、とどめだったのですが。
新しいボトルに使用していた水草には、農薬がついていたらしく、弱った生体にはひとたまりもありませんでした。
農薬付きの水草は全て捨て、水を入れ替え、ボトルの再セットアップを行いました。
しばらくはまたボトル作成かなあ、と思っていたのですが、ひょんなことからメダカを手に入れたため、急遽メダカボトルとして運用を始めました。
割合過酷な状況で飼われていたらしく、非常に生命力が強く、元気です。
よく見えないですけど、メダカが3匹と、おまけについてきたタニシが1匹入っています。
奥にポトスの植木鉢があるため、ボトルが見えにくくてすみません。
床には作成途中だったモス床(ウィローモスをシート状に生やしてわっさわっさにしたもの)が、奥には流木とそれにウィローモスを木綿糸でぐるぐる巻にして根付かせようとしているものが見えます。
水面には、メダカと一緒に貰った浮草みたいなものがあります。
あと1ヶ月もすれば、それなりに見栄えがするようになると思うのですが。
また、メダカは雄1匹、雌2匹で、卵を生んでいたため、よく見ると水面に浮かんでいるのが見える透明なやつの中に卵を隔離して、孵化させた後に育てようと目論んでいます。
ボトルを立ち上げてから一週間くらい経ちますが、今のところ順調です。
今回のボトルは、前回のボトルの反省点を踏まえて、
とりあえずはこの状態を維持して水草などの生育を図りつつ、メダカの稚魚を上手に育てたいなあ、と思っています。
あとはエビですね、エビ。
ヤマトヌマエビかミナミヌマエビを入れないとなりません。
ただし、エビは非常に水質に対する感受性が高いため、もうちょっときっちりボトルの環境が整ってからですね。
本当は一刻も早くエビを入れたいのですが。
エビを入れて、思う存分気の済むまで眺めていたいのですが。
「新しいMacBook」を2週間ほど、ゆるゆるふわふわと使ってみましたので、適当に雑感を。
スペックはこんな感じです。
名前;MacBook (Retina, 12-inch, Early 2015)
CPU;1.3GHz Intel Core M
SSD;512GB
メモリ;8GB
キーボード;US
色;スペースグレイ
特盛りモデルです。
このMacBookは、拡張性がUSB-Cしかないとか、CPUがCore Mだとか、キーボードのストロークが短いだとかで、発表当初から賛否がハッキリ分かれたモデルになりました。
いい意味でも悪い意味でも尖っていて、初代のMacBook Airのようです。
控えめに言っても人柱モデルかなーと思います。
で、私にとってどうだったかと言うと、今のところどれも全く問題になっていません。
拡張性については確かに初期設定やソフトのインストール時に若干の不便を感じましたが、対応できないほどではありませんでしたし、処理速度については思ったよりもずっと速かったです。
キーボードもすぐに慣れました。
ただし、この辺はかなり個人によって感じ方が違いそうな部分で、人によってはクリティカルだろうなあ、と言う実感も受けています。
私のように、メイン機は別にあって、ゆるふわなサブ機としてなら全く問題ありません。
気に入った点としては、MacBook Air 11インチよりも軽いこと、Retinaディスプレイであること、必要十分な性能は確保されていること、持っている人が少ないので若干のドヤ感を味わえることなど、私がサブ機に求める条件としては申し分ありません。
あと、トラックパッドの感圧タッチは、最初とてもビックリします。
凹まないのにクリック感がありますので、脳が騙されて混乱して楽しいです。
正直、誰にでもオススメできる機種ではないですけど、人柱になりたい人にはとてもオススメの機種です。
私個人としてはとても気に入っています。
メイン機あってのサブ機、と言うことで、メイン機の話です。
今の私のメイン機は2012年に発売されたMacBook Pro Retinaの初期型です。
買った時の感想はこんな感じ。
どことなくなんとなく;MacBook Pro Retinaディスプレイモデルが届いた
まだまだ十分に現役をはれる性能を持っていると思っています。
ただしこれ、初期型なんですよね。
初期型はチャレンジングな反面、不具合が起こる率も高く、このモデルもその例に漏れません。
例えば、このモデルはリコールの対象だったりします。
MacBook Pro ビデオの問題に対するリペアエクステンションプログラム
今までは代替機がなくリコールのリペアプログラムに申し込めず、そのままにしてしまっていましたが、MacBookが手に入ったことで、ようやく対処できそうです。
また、こちらはリコール対象ではありませんが、ディスプレイの焼き付きも多発しているモデルです。
MacBookPro Retina 15インチ 焼き付き問題のまとめ
最近、私のMacBook Proも焼き付きが発生しています。
ただ、保証期間が過ぎているので、おそらく有償修理になると思います。
ネットを見た感じですと、恐らく修理代は6〜7万円になりそう。
リペアプログラムのついでにこちらも対処しようとは思っていますが、なかなか高いですね。
修理をするつもりでは居ますが、もし修理しない場合は、
・焼き付きを気にしない
・外部ディスプレイのみで使用する
・MacBookをメイン機にする
の何れかの対処になるのではないかと思っています。
とりあえずそのうちにAppleストアに行って、話をしてくるつもりです。
完全に互換できるサブ機があると、こういう時も便利ですね。
MacBook Proも初期型を買ったので人柱だったのかなあ、とかは一切考えない方向ですし、考えたこともありません。
もちろん、ありません。
桜の季節に雨が降ると、少し残念だなあと思うと同時に、桜と雨の組み合わせもそれはそれで悪くないなあとも思います。
「雨」は写真に写りにくいことだけが、少しだけ不満ではありますが。
桜と一緒に写る「雪」や「青空」の写真は映えるんですけどね。
毎年、定点観測のように桜の話題を書いているので、今年も書かないわけにはいきません。
なんとなく毎年の満開の時期を知ることもできるので、「おっ!今年は早かったな」みたいに1年で1度だけ便利です。
どことなくなんとなく:花見(2005年4月22日)
どことなくなんとなく:花見頃(2006年4月20日)
どことなくなんとなく:花見頃(2007年4月14日)
どことなくなんとなく:桜が満開(2008年4月14日)
どことなくなんとなく:花散し(2009年4月15日)
どことなくなんとなく:桜色は寒空の底(2010年4月27日)
どことなくなんとなく:花見頃も過ぎて(2011年4月26日)
どことなくなんとなく:桜の季節も終わりつつ(2012年4月30日)
どことなくなんとなく:9年目の花見ごろ(2013年4月16日)
どことなくなんとなく:そろそろ見頃(2014年4月13日)
今日は4月11日ですので、今年は桜が結構早かったんですね。
改めて振り返ると、最初の桜のエントリが2005年で、今年は2015年です。
思えば遠くへ来たもんだ、と思いますけど、10年経っても同じようなことをできているのは、ある意味とても幸運だと感じています。
10年後は流石に違うことを書いているかもしれませんが、もし同じだったとしても、この部分は変わらなかったということで、それはそれで有りかなあと思う所存です。